コラム
COLUMN
遊郭論議のソース元になったんで、記事にできなかった内容を書きたいと思います。


昨年、ふと「なんも知らんな」と気づき、なんやかんや半年ほどかけて取材を行い、肥後ジャーナルに年始にアップした二本木遊郭。
肥後ジャーナルの記事って大体、公開して数日でPV数もリツイート数も減ってくるのですが、なぜだかこの記事に関しては1カ月を過ぎて突然リツイート数が増えてきました。
何があったんだと検索したところ
どうやら世間では鬼滅の刃の遊郭編の是非が論争されているご様子。
そしてその論争のソース元としてリツイートされてたのです。
これはなかなかにない経験。
私個人として、その論争に対し「どちらが正しい」とか言うつもりはサラサラないんですが、せっかくですし記事に書けなかった内容でも記していこうかと思います。
当時は「文化」じゃなく「生活」
結論から言うと
その当時は「文化」とかそんなことではなく、生きるための手段。いわゆる生活のためだったんですね。
いろいろと語るのは、それはあくまでも現代から見た基準でしかない。
当時はそれが普通だった。
ひょっとしたら、今我々が生きているこの時代もあと数百年後から見れば「なんて悲惨なんだ」と思われているのかもしれません。
しかし、今を生きている側からすれば、これが「普通」。
要は時代が変われば概念も変わる。
その程度の話です。
なので、その当時の方も遊郭がある生活が普通で、そんなに特別なことでもなかった。
よく「人権が!」とか言いますが、人権なんて概念できたの、それこそ最近ですからね。
当時は戸籍もありませんでしたし。
生きていくためには食べ物とお金が必要。でもそれが、このままでは手に入らない。だとすれば、何か売れるものを…。そう考え、出てきた答えの1つです。
遊郭は隔離された世界ではなかった
二本木遊郭自体の歴史は、約80年間でしたが、遊郭で働いている人の中でも「ずっとは続かない」と、悟っていたお姐さんがたも少なくはなかったようです。
特に東雲楼のストライキ前に、その空気感は顕著だったようで
「これからは売春以外のものでお金を作っていかんと」と、入ってくる女の子に文字や数の数え方、油絵の描き方などを手ほどきする先生が出てきたのだそう。
先に話したように、遊郭は生活の1部だったので、別に一般の人と完全に隔離されている!という訳ではありません。
普通に商売に来た人とも話ますし
その中で
「これからはもっと変わらないと」
「売るのは自分自身じゃなくて知恵だ」
と、気づいた方から派生していった波だったそう。
もし遊郭がなくなったとしても、どうにか生きていけるようにと最低限の教養を身につけていたからこそ、ストライキにまで発展したのかもしれませんね。
その後、遊郭が本当になくなったあとは、呉服屋や教員、画家になり生計をたてた遊女もいたそうです。
とにかくパワフルだったあのころ
語弊があるといけないので、もう一度言いますが
「遊郭は悲惨だった」
「いや、遊郭はセーフティーネットだった」
などの論争に是非を説いたいわけじゃありません。
あくまで、私が当時を知る方に聞いた印象ですが、そんな話じゃないんですよ。
本当に生活。
遊郭を出る方法は、借金を完済するもしくはどこぞの旦那に身請けされる、この2パターンしか存在しません。あとは足抜けですけど、まあそれは横においといて。
借金完済して出る方なんて1割にも満たない実情ですから、可能性があるとすれば身請けですね。
なので、身請けされるようにと教養を身につけたりなんかもあったのですが、ある女郎さんが大阪の不動産業を営む社長に身請けされたのだとか。
もちろん本妻ではないので、大阪ではなく熊本に残りその方との間に3人子供をもうけました。
しかし援助はいつか途絶えます。
そうなると困るのが生活費。
単純に考えれば、遊郭もしくは似たような仕事をしたほうが早いに決まっています。しかし「絶対に戻らん」と、昼夜問わず1人で働き続け、その姿を見たご近所さんも
「なら、下の子はうちで見とくけん!」
など、皆で支えあって育てていったんだとか。
このエピソードを聞くとやはり「ああ、今と本当にあまり変わらないんだな」って思いません?
生まれてくる時代が違えば
生まれてきた家が違えば
遊郭で働いていたのは自分だったのかもしれないなと強く感じるのも、自然なことで。
だからこそ
華美にすることも、荒むこともなく
ただただ「その時代に懸命に生きた人間がいた」
それだけを忘れずにいればいいのではないかと思うのです。
きっと「遊郭なんて!!」という方の根底って、偏った情報をそのまま信じ込んでしまっているのかもしれない。だからこそ「子供に聞かれたらなんて説明していいのかわからない」という不安感が強いのかもしれません。
でも、もし数百年後あなたがしているお仕事が「子供になんて伝えればいいのかわからない」と言われていたら?
まずは知ること。
それが、近代の礎を作った方に対し、我々ができることって、きっとそこなんだと思います。
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ライター紹介

武藤 佑香里
松坂世代で阿蘇生まれ、熊本市在住。
年齢を重ねたものの、いまだ何かが分かった訳でもなく。ただ迷いつつ、でもがむしゃらに手探りでどーにかこーにか生きております。
元金融なのに計算があまり好きではありません。四十肩防止で毎朝ラジオ体操が日課(にしたい)。
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